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平和文化の創造――物語の叙述と歴史の解釈

文‧撮影/曹欽栄

〈摘要〉
 台湾の緑島人権記念園区は「人権の歴史」、「島嶼の生態」、および「平和文化」の展示を趣旨にして設立されたものである。そこには博物館設立の目的や設立の過程で関わりのあった歴史、環境、文化などの要因が含まれており、中でも歴史叙述の真実性および参観者の人権抑圧の歴史への理解は、本園区が平和文化を伝達する重要な内容になっている。本稿ではNGO組織が長期的に白色テロ受難者および救援者にインタビューして彼(女)等の生命の体験を取材し続けた経過を重点的に検討したいと思う。参観者に取って、受難者および救援者が一人の行動者として生きた生命の歴史は、彼(女)等が語る物語の中から比較的容易に命の意義の啓示を受けることができる。参観者はこのことによって同情心を引き起こし、平和文化の社会的重要性を理解し、社会の和解と対話の基礎が形成され、民主的生活の文化的想像を深めることができる。本稿は東アジアの平和記念館や関連する博物館が、互いの歴史を師とし、平和の「同心円効果」を創造し、恰も水の波紋が中心点から広がって行く様に、記念館を平和文化伝達の中心と成し、また一人ひとりの参観者も平和のメッセンジャーの中心点となることを期待するものである。

キーワード:平和文化、人権、台湾白色テロ、物語の叙述、歴史の解釈

 2005年スペインのゲルニカで開催された会議は忘れ難い印象を人々に与えた。この度美しい日本の古都京都で再会の機会を得られ、私は関西地方の多くの日本人の方々が長年に亘って台湾政治犯救援活動に参画して下さったことを思い出す。
 2007年12月10日、台湾人権景美園区開園の日に、台湾のNGO団体は世界各国からかつて台湾政治犯救援に尽力なさって下さった外国人を招待したが、その中に数人の日本人の方々が含まれていた。
 2008年6月、遥か30数年前に政治犯に関する情報を収集するため台湾を訪れた小林氏が、再度訪台してNGOが主催した平和音楽祭に出席した。
 一方、京都出身で、我等が敬愛する三宅清子女史は、かつて1970~80年代に台湾政治犯救援に献身的な努力をして下さった。次に述べる3つの物語の主人公は、三宅女史の台湾における無二の親友になった人たちである。国境を越えた誼は末長く2国の国民の間で大事にされているのだ。
 以下の真実のストーリーは、NGOの活動を通じて発生したものであり、平和関連博物館の故事の叙述に重要な貢献をすることができるものと思われる。

ストーリー
ストーリー1. 三宅清子女史は2008年6月、台湾鳳山で挙行された故許昭栄氏(1928-2008)の追悼告別音楽会に参列するため訪台した。これに先立つ2008年5月20日、夕日が台湾海峡に沈む頃、昔日本殖民地時代の日本兵で、終戦後は国民党海軍の水兵から白色テロの政治犯(1958-1968)にされた許昭栄氏は、台湾高雄旗津海浜の「戦争と平和記念公園」で焼身自殺を決行された。許氏は遺書の中で、「台湾の国は国たらず、政府は台湾籍軍人に公平な処遇を与えず、高雄氏市議会は戦争と平和記念公園を勝手に平和記念公園と改称した」と抗議したのである。翌日の台湾の新聞紙は社会面でこのニュースを報道した。

    ◆許昭栄氏(1928-2008)の追悼告別音楽会。(曹欽栄 撮影)

ストーリー2.
 2008年2月28日の底冷えする寒い日に、かつて1951年に無期懲役の刑に処せられ、牢獄で25年の歳月を過ごした後にやっと釈放された盧兆麟氏(1929-2008)は、昔白色テロ時代に政治犯を処決した場所――台北馬場町記念公園で、若者たちに228事件や白色テロの歴史に就いて解説をしていた際急に倒れ、直ちに救急車で病院に送られたが既に息絶えていた。台湾の新聞紙は小さなスペースで「馬場町解説員の死」を報じた。
    ◆盧兆麟氏(1929-2008)。(曹欽栄 撮影)

ストーリー3. 蔡焜霖氏(1930- )は胸に2枚の写真を抱き、2008年総統選挙の投票が行われる以前の「逆風行脚」キャンペーンに駆け付け、若者に混じって20数キロの道程を歩いた。2枚の写真は理想を抱き郷土愛に燃えながら、それぞれ1980年代および1950年代に、白色テロに若き命を奪われた青年の遺影であった。前者は米国から帰省中に台湾の情報機関に連れられ去れ殺害された少壮の学者陳文成博士であり、後者は楊俊隆氏であった。蔡氏自身は1950年代の白色テロが猛威を振るっていた時代に逮捕され、緑島で10年の囚われの歳月を送った。楊俊隆氏は蔡氏の台中第一中学校の1期先輩に当たり、一中から台南工学院(現成功大学)に進学したが、生来の学問好きで、この理工系の大学でも読書会に参加し、哲学、歴史、音楽から原住民芸術に至るまであらゆる分野の書籍に親炙した。1950年に読書会に参加したかどで逮捕され10年の懲役刑を課せられ、緑島の新生訓導処で思想改造と重労働に従事させられた。1953年に「緑島新生訓導処再叛乱案」で台湾に送り返され、1956年1月13日銃殺されたが、享年僅か27歳の若さであった。このストーリーは台湾総統選挙戦たけなわの頃インターネットで議論され、5月東京で開催され300人が出席した台中会の集いでも多くの人が知るところとなった。

 上に述べたストーリーは、台湾と日本2国間の民間の友情の絆が、NGO組織および個人の自発的ヒューマニズム的行動として具現していることを示している。日本殖民統治時代の文化が、異なる世代の台湾人に残した影響を調べることは、日台両国の人民がお互いの間に存在する歴史的繋がりを理解する上で深遠な意義を持つものと思われる。上述したストーリーの3人の主役は、ともに日本殖民統治下で教育を受け、ともに2次世界大戦および1947年の228事件を経験し、共に白色テロの迫害に遭い、長い歳月を台湾南東の沖合いの小島―緑島(火焼島)に監禁された、いわば台湾の20世紀の歴史の生き証人なのである。

 ストーリーのバックグラウンドは百年来の台湾の歴史であり、それは統治者の交代、言語の変遷、アイデンティティの転換、文化の差異、社会的反応、およびメディアの観点等々、今後も社会学的に或いは文化研究のテーマとして更なる解明と分析が必要なイシューが多く含まれている。ストーリーの主役は歴史の当事者でまた目撃者でもあり、具体的な行動で当今の社会に「過去になって間もない」歴史を知ってもらいたいと願っている。然しながら彼らの行為が代表している文化的意義は、当世の台湾人にとって理解し難いものとなっている。主要な原因は、長期的戒厳令統治(1948-1987)によって及ぼされた構造的影響により、民主化の過程にあっても、政府および社会全体が「移行期の正義」の問題を未だに解決できなかったことにある。寧ろ、NGO組織が長期的に台湾の白色テロ受難者に関心を示し、上述した3つのストーリーの人物と歴史の関係を掌握し、人権記念園区に貴重なフィールドサーベイの資料を提供し続けている。

歴史の脈絡
 本稿は、少なくても次の2つの方向から、前述した主役世代の歴史的脈絡を探討すべきだと考えている。
1. 東アジア隣国間の歴史の比較研究は、東アジアの平和博物館が軽視できない重要なポイントだと思われる。特に地政学的要因によって発生した過去から現在までの相互関係、例えば日本、沖縄、韓国、中国、台湾の間の歴史的脈絡の関係がそうである。東京の靖国神社の遊就館およびソウルの戦争博物館の常設展では、共に台湾の歴史との関連性が表示されてある。遊就館の「靖国の神々」展示室には台湾李登輝前総統の長兄李登欽氏の遺影が飾れられてあったし、ソウル戦争館の展示では中華民国(台湾)がベトナム戦争に参加した経緯が記述されてあり、台湾と日本、または台湾と韓国の国民が、このような歴史の展示をどう理解しているかということは、別稿で更なる検討が必要な問題であると考えられる。
2. 「人権」の観点から、台湾の歴史の脈絡を解釈すべきである。受難者側から見れば、戦後の台湾史は長年に亘る人権抑圧の歴史であり、同時に人民が正当な権利を追求する歴史でもあった。台湾の最近20数年来の民主化の過程にあって、人権問題を訴える種々のNGO組織が創設された。これらの組織は国内外の人権運動に積極的に参与し、政治犯救援および歴史の真実解明などの運動に従事している。「人権」の考えは、元より西洋の歴史および文化から発生した抽象的観念であったものが、台湾戦後史の実質的内容には人権の抑圧や人権を追求する事例が無数に包括されてある。
 台湾では、1990年代に民主化が始まってから、「人権」の訴求を目的にした博物館が数多く創設された。例を挙げれば、228事件(1947)を記念するための228記念館(台北市、1997)、白色テロ(1949-1987)を記念する緑島人権記念園区(台東緑島、2002)、台湾人権景美園区(台北県、2007)などがあり、台湾民主化の過程において、人々が過去に発生した事を知りたいという欲求に応える形で、記念館が当世の歴史記憶の場所となったのである。
 台湾百年の歴史を簡潔に振り返って見れば、戦争が台湾住民の命運に巨大な影響を及ぼしたことが分る。1895年の日清戦争で敗北した清朝は台湾を日本に永久割譲;1945年2次大戦終戦により、日本の植民地であった台湾は中国国民党政府に占領された;その後中国の内戦に敗れた国民党が台湾に敗退し、世界の冷戦構造に組み込まれた;1949年から台湾は38年の長きに亘る戒厳令統治の下に置かれ、台湾の国民党政権と中国の共産党政権が引続き睨み合う内戦の状態が続いた。今日、台湾は既に民主的社会になったとはいえ、不確定的要因がなおも台湾に影響を及ぼしており、中国はミサイルで台湾に照準を定めているだけでなく、2005年3月14日に「反分裂法(Anti-secession Law)」を制定した。そのため、同年3月26日に台湾では「反分裂法」制定に抗議する数万人規模のデモが決行された。戦争の陰影は何時までも台湾を脅かし続けていると同時に、東アジアの平和にも脅威を与えている。台湾住民の民族自決の意識は、数重なる民主的選挙によって益々強化される趨勢にある。2008年3月の総統選挙の結果、かつて戒厳令統治を敷いた国民党が再び政権を取り戻し、中国に対し大幅な開放政策を進めていながら、「移行期の正義」の政治課題にはなるべく触れることを避けているため、白色テロ受難者は「人権記念園区」の実質的効能が低下することを憂慮している。
 次に3つの角度から、台湾の記念園区がどのようにして、台湾社会の自己認識を助け、隣国との相互理解を促進し、民主によってもたらされる自由と人権の成果を分かち合うことができるのかを探って見たい。
第1に、歴史的脈絡の角度がある。1895年以降、日本による殖民統治は台湾住民を「日本人」に形成する過程であったのに対し、1945年終戦後に台湾を占領した中国の国民党統治は台湾住民を「中国人」に作り変える過程であったが、以上2つの政権とも、博物館を上手に運用して台湾を台湾住民にとっての「想像の共同体」に形成することはできなかった。ベネディクト・アンダーソンによれば、西洋の殖民政権の東南アジアにおける権力制度の想像は、人口調査(Census)、地図、博物館の3つのシステムによって殖民統治の正当性を構築したものだと言う(Anderson 1991:chapter10)。台湾史の中で博物館が果たした役割を考察して見ると、20世紀の2つの外来殖民体制が台湾で「国民」としてのアイデンティティを形成しようとした現象が堅実だったものには見えない。第2に、台湾には国家の名を戴した「戦争」博物館によって、国家の集団記憶を結成し、台湾住民の「想像の共同体」を形成することが無かった。今後台湾が既に創設された人権記念園区を通して、自らの「人権」の課題を省み、「戦争と平和」の関連性に思考を巡らし、内部および外部の平和文化を構築できるのか、これは人権記念園区にとって先見性ある想像と言えるのではなかろうか。第3に、多くの著作や論文では「国際人権」の理念および実践が説かれ、20世紀の2度の大戦の後、顕著な進展が見られた。「人権」が果たして世界的な価値となり得るのか、学者の論述にしろ、または各国の実践の経験にしろ、どちらも現地の文化的伝統を疎かにすることはできない。そのため、「人権」に対するクロスカルチャー的観点の内的正当性と外的普遍性は、21世紀において広く討論されることになろう。人権のコンセプトと実践を基礎にした平和の思想と行動こそが、平和関連の博物館の重要な課題である筈だ。
 既往において、台湾の命運の変遷は、常に隣国の交戦の結果に掛かっていた。台湾は自分から戦争を発動することがなかったのに、常に戦争の被害者にされたのである。台湾は現在なお国家を主体として創設された「戦争」博物館を持たず、また「平和」を名とした博物館も持っていない。人々は何時も「平和」を「戦争」と対立的な語彙として「戦争と平和」の関係とそれぞれの概念を理解しようとする。台湾には、戦争と平和の博物館こそは無いものの、「人権」の記念園区を持っており、今後とも台湾の人権記念園区は「人権」を基礎として平和のメッセージを発信する必要があろう。「人権」および「平和」のアジェンダに関する限りでは、記念園区はNGO団体と長期的に協力し合い、社会の実態に密接することで初めて上述したストーリーが反映している課題に対応することができるものと思われる。

歴史の解釈と現代社会
 台湾の人権記念園区は、何よりも先ず多くの人権に対する抑圧および追求の事例を調査し、記録する仕事をしなければならない。これら事例のミクロおよびマクロの分析から、38年の長きに亘った戒厳令統治下の社会における個人、全体、および公共分野の全貌を掌握し、禁錮された社会が今日に及ぼしている有形無形の影響を理解することができる。そして「移行期の正義」に関わる総ての問題が現代社会全体に対するチャレンジであり、これらの難題を共同で克服する経験こそが、社会が相互信任と和解に向けて進む民主化の新経験であることが分る。記念園区では、日々開館して参観者との相互作用により、歴史的経験から社会和解の方法を学ぶ理想的な場所になれる。記念園区は人権と平和のメッセージを発信するセンターとなり、また平和的、民主的文化を構築する教育機関ともなり得るのである。
 平和のメッセージを発信し伝達する方法や媒体は数多あり、ストーリーの叙述、歴史の解釈、或いは多様な芸術作品の助けを借りるなど良い方法に不足はない。最近数年以来、台湾の人権園区では官庁の観点で進めているハードの建設や記念イベント以外に、NGO団体が受難者と参観者の間に横たわる世代間の歴史認識の落差から出発して、現代社会が歴史を忘却した喪失感をどうにかして埋め合わせようと努力している。具体的方法としては、史跡の参観、「台湾は忘れない」グループの日本の平和関連博物館の参観や人権救援者への訪問、救援映画/自動人権映画の製作、「人権への道(中、英、日語版)」の出版、歴史的人権関連ドキュメントの展示、若者と受難者の膝を突き合わせての対話、歴史口述工作坊(スタジオ)、音楽フェスティバル、アート創作フェスティバル、演劇や上演イベント等々、多彩な活動は総て歴史的素材を参観者と連結する主軸にしている。
 平和促進の仕事は人類にとって遥か昔からの重要な課題であったし、平和博物館は幾世紀にまたがる博物館界の新事業であり、博物館は日々参観者とコミュニケーションを交わす文化機構として、現代社会と密接な関係を持っている。平和博物館は更に多くの先見性を備えた功能を発揮するべく、平和文化の守護者および創造者の役目を自任しなければならない。ICOM(国際博物館会議)は2001年にICMEMO(公共に対する犯罪犠牲者追憶のための記念博物館国際委員会)を設立、ICMEMOが定義した記念博物館と平和関連博物館との間には、共通のファクターと相異なるファクターが混在しており、本稿で議論する余裕はないが、然しながら、ICMEMOの訴求を参照した場合、台湾の228記念館や人権記念園区は共にICMEMOが提唱している特質に符合している。即ち、これらの施設は何れも事件が発生した歴史的場所に設置されてあり、公共に対する犯罪の犠牲者を記念(The Remembrance of Victims of Public Crimes)することを目指している。台湾の記念館や人権記念園区はICMEMOがフォーカスを当てているアジェンダ に従い、社会との対話の任務を担うべきであろう。現在、緑島人権記念園区はICMEMOが関心を払っている課題に向けて博物館事業を展開している。然しながら、実際の運営上ではなお多くの問題を抱えており、その一つとして、文献や記念物品の収蔵が容易でないため、生存する受難者の口述が最も重要な証言になっている。口述歴史はその非物質的特性を、如何にして平和博物館における展示で表現するか、それにはダイナミックな映像テクノロジーの技術的支援に頼らなければならず、当事者の歴史的叙述を「再現」することによって、当時の情景を如実に伝えようとするものである。

p.s.  The IC MEMO board focuses on the following topics:1. Preservation of authentic sites and buildings. 2.Acquisition and conservation of collections.3. Exchange of experiences between Memorial Museums, especially on the field of commemoration and education.4. International standards for organizing and describing records and objects.5. Cooperation on the fields of exhibition, acquisition, education and documentation.6. Chances and borders of digital presentations (database, Web-site, online exhibition).


 従来の博物館が物質的文化を主要な展示方式と叙述としているのに対し、平和博物館は人類の経験を主体とした叙述により、非物質的な展示を主としていて、どちらかというと、文化資産学界でいう無形の文化資産に近い。有形無形の資産を運用して平和博物館で展示を行なうことは新たなチャレンジを意味している。台湾の人権記念園区で展示されているのは、人々が自由、平等、解放などの価値を追い求めて奮闘を続けた「歴史の真相」であるが、それを如何にして当世の人権記念館で「再現」できるのかが課題になっている。
 人類学者クリフォード・ギアツは解釈学的アプローチによる「解釈人類学」を主張しているが、これは単なるアプローチ方式の違いであるだけでなく、もっと重要なのは、歴史に対する理解が、更なる深層の人間性への関心と個体尊重の文化的ギャップから発せられていることにある。記念園区で「歴史の真相」を究明する方法の一つとして、広汎な数重なるインタビューを通し、生存する受難者の文化的イデアが、多重の描写を通して「再現されている(be represented)」。記念園区としては責任ある態度で歴史に相対し、常に「再現自体がどういう形で再現され(be represented)ねばならないか」を問い続けなければならない。
 初歩的な推計によれば、台湾には今まで未だにインタビューを受けたことのない白色テロの被害者が数千人も残存している。口述が真に価値ある人類精神的遺産の「流動言語」(ギアツ)になり得るのであれば、台湾の白色テロの研究は、歴史学、政治学、法学、人類学、社会学等の学際的交互のアプローチによって、人権記念館に大きな助けを提供できるであろう。その中でも、NGOの仕事が我々に与えてくれた啓示とは、学問の分野を超えた学際的協力が如何に重要であるかということであり、筆者が期待しているのは、台湾の白色テロへの学際的研究が、NGO組織や異なる学術分野の間を自由に飛び交い、更に多彩な命の経験と知識の火花を散り放すことである。

結論
 日本のノーベル文学賞作家大江健三郎へのインタビューを収録した「作家自身を語る」が、最近台湾で翻訳出版された。小説家としての大江健三郎は、自分の現在最大の願いは「東アジア地域の非核化」であると明言している。一個の台湾の読者として、私は日本が2次大戦で廣島と長崎2都市の原爆被爆者が断固として「核体制」に反対してきた歴史的経緯から作家の願いを理解している。同席の各位もそれぞれ各自の国家の歴史的脈絡によってもたらされた「平和への願い」を胸深く抱いているに違いない。この同様な心の共鳴からなる願いは、恰も「同心円効果」の如く、水の波紋が中心点から拡散していくように、平和博物館も平和文化を伝達する中心点となり、同様に一人ひとりの参観者も中心点となり、中心点が増えることによって、拡散の輪も増え続け、輪と輪が合い交わって、やがてはグローバルな「平和」への願いと行動に発展するのである。このような願望の基礎は、相互の歴史の脈絡に対する理解の上に置かれなければならない。筆者が東アジア諸国(中国、韓国、日本、沖縄)の平和関連博物館を参観した経験から言って、我々は博物館が積極的に発信する平和のメッセージの助けを借り、相互の歴史の脈絡を理解する第一歩を踏み出し、堅実な平和の対話の基礎を構築したいとひたすら請い願うものである。(日本語訳:蔡焜霖;英訳:Lynn Miles, 2008.06.25)

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