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從沖繩‧與那國島到台灣之旅

我走向自由的漫長旅程之起頭
原著/小林隆二郎   中譯/津村葵   校訂/蔡焜霖

這件事發生在1975年。當我在大阪為了針對「朴政權向詩人金芝河所發表詩作與言論進行箝制,並將他逮捕入獄」一事提出抗議,同時也為聲援獄中的金芝河先生所舉辦的民謠音樂會的準備工作而忙碌奔走時,大阪某所大學的教授K先生提供了國際特赦組織(Amnesty International)的房間給我,並介紹我認識梅心怡先生。當時與梅心怡先生的相遇,成了我進行從與那國島到台灣這趟旅行的開端。

聲援金芝河的音樂會結束之後,梅心怡先生詳細告訴我台灣人權鎮壓問題的情形,並提供我國際特赦組織所發行的參考資料。

當時應該是1977年5月。梅心怡先生緊急連絡我,當我立即造訪他所住的公寓時,他說:「因為小林先生去過沖繩好幾次,對那裡非常熟悉,所以我希望你可以跟我一起去與那國島。」當我詢問他理由時,他的答案讓我相當驚訝。

他說:「我希望你可以去與那國島迎接因為對台灣國民黨政府的惡劣行徑提出政治性批判與抗議,而被遭到追捕的兩名男子。」

「那兩個人的處境非常危險,我希望可以讓他們儘早離開台灣。」因為說著這些話的梅心怡先生感覺相當的認真、急迫,我當場就答幫他的忙。

幾天之後,我訂立了一套縝密的計畫,並和梅心怡先生進行討論。1977年5月底,我們啟程前往沖繩的與那國島。

根據計畫,在那天之內,我們預定從大阪伊丹機場到沖繩.那霸機場,再從那霸機場到石垣機場,然後,再從石垣機場到與那國島機場。當天,我們依照計畫順利抵達那霸、石垣島,再來就只剩下前往與那國島的飛行路程。石垣島的天氣相當晴朗,初夏的涼風微微地吹著,感覺相當舒服。當時,機場內廣播著:因為與那國島的氣候不佳,所以飛機停飛。我和梅心怡先生急忙走向南西航空的櫃檯確認詳情。結果,當知道當天的班機不再飛行之後,我們很快的將機票座位改為隔天最早的班次,同時開始尋找旅館。

隔天依舊是萬里無雲的好天氣。確定班機會照常飛行之後,我們一邊祈禱本來預定前一天在與那國島與我們會合的兩名男子平安無事,一邊壓抑著焦急的心情,搭上19人座的小型雙引擎螺旋槳飛機,往與那國島出發。

與那國島漂浮在位於石垣島西南方124公里,台灣蘇澳東方111公里的日本最西端的東海上,是個周長27.5公里的小島。

與那國島上有著祖內、比川、久部良三個部落,台灣來的兩名男性就屈身在久部良部落。梅心怡先生在部落中交替地大聲唱著英文及北京話的歌曲,藉以通知對方我們已經抵達。過了大約1個小時,我們來到座落著幾間民宅的小山丘上,當兩個約40歲左右的男子從由珊瑚堆積成的石屏旁謹慎地探出頭來看到我們之後,其中一人開始輕聲地對梅心怡先生說話。交談過幾句話之後,梅心怡先生開心地告訴我「找到他們了。」(因為我已經無法憶起當時所遇到的兩人的姓名,姑且就稱他們為A先生與B先生)

A先生身上穿著向幫助他們躲藏的民家借來的尺寸過小、完全不合身的芭蕉布衣服,在伸出於衣服之外的手腳上,有著許多慘不忍賭的擦傷和割傷,上面塗了紅藥水(紅色消毒藥水)。B先生也穿著向民家借的工作褲和T恤,他的兩隻手臂上也有著多處擦傷,塗抹紅藥水的傷口痕跡看起來十分令人心痛。梅心怡先生幫我們翻譯,他們說:「我們兩個人在半夜從台灣搭著漁船來到與那國島到附近,跳進海裡之後再游泳上岸,這些傷口就是在當時被岩石和貝類割傷的。」再加上與那國島周邊海域的水流相當湍急,只要走錯一步,就必死無疑,可見當時兩個人肯定被逼得走投無路,才會讓他們寧可選擇跳進極為危險的漆黑大海中。

我將多帶的換洗長褲、T恤和內衣褲交給兩位。

之後,我們立即跟民家的人道謝,然後,便搭著租來的車子前往機場,買了往那霸的機票。在下一班飛機抵達之前,我們就待在狹窄的機場候機室,留意周遭的情形,並等待時間的流逝。就在等候的那段時間,我感受到了幫助兩人躲藏的島民們的愉悅心情。

不久之前,首里王府和石垣島與台灣還相互交流,和並有著信賴關係,所以與那國島上的居民和與他們頻繁往來的台灣人彼此信賴,現在所發生的一切,或許就是當時那份深刻情感至今依舊得到重視的證據。(譯註:與那國島和石垣島等島嶼均為琉球王國所屬,而首里王府則為琉球王國的政府。)

我們在傍晚抵達那霸機場,因為沒能趕上前往大阪的飛機,於是我們買了隔天中午班次的機票,當天則投宿在那霸的旅館。

當天晚上,那兩個人告訴我們國民黨多次非法竄改選舉得票數,捏造事端,對希望台灣獨立的文化人,特別是被稱為鄉土作家的人們之激烈表現所採取鎮壓也越來越嚴重,甚至還將鎮壓的魔手伸向以『莎喲娜啦.再見』這本小說而聞名的黃春明先生,對反對國民黨的人們加以惡意逮捕等諸多侵犯人權的現狀。

隔天,我們搭上中午過後的班機,於傍晚時抵達大阪的伊丹機場。我們在機場將兩個人交給另外一個聲援兩人的團體。

後來我才知道,這兩人在伊丹機場和其他聲援團體會合後,在3~4天之後便出發前往美國,在美國下院議會的台灣人權問題公聽會上針對國民黨的人權迫害現狀提出證言。


首次的台灣旅行(1977年7月17日~7月22日)

就在與那國島之旅的疲倦才剛剛恢復,6月底,梅心怡先生又來了一通緊急電話。

他告訴我:「有一個被國民黨政府當作政治犯加以逮捕,並受到嚴厲拷問的人出獄了,他說他想為這件事情作證,因為我想請你將那個人所經歷的拷問過程聆聽、紀錄下來,所以希望你可以盡快到台灣去一趟。」我在某個深夜造訪梅心怡先生所住的公寓。當他在公寓跟我說明了這件事的急迫性和我應該做的事情之後,我便決定前往台灣。

我從隔天開始進行護照和簽證的申請、傳染病的預防接種(當時需要黃卡,譯註:所謂的「黃卡」指的是預防接種紀錄卡。)、以及機位的預約和機票的購買,一連忙了好幾天。

在那幾天,梅心怡先生針對我在台灣要會見的人物和見面場所等詳細行動計畫進行安排。因為我不會說北京話,所以在進行拷問過程等內容的詢問之前,我還特地請梅心怡先生事先用中文在不同的問題上寫上編號,作成書面文字。還有一點,為了確認我在行動時是安全的,我們決定每天在固定的時間以電話聯絡。

7月17日
我搭著日本亞細亞航空的飛機從大阪伊丹機場前往台灣台北。

抵達台北之後,我便與要幫我安排這次旅程中所要接觸的人物、場所和時間的人進行聯絡,並前往那個人位於台北市內的家中。

那位年約50歲,面容十分和善男性D先生以極為流利的日語歡迎我。他很快地針對我在台灣國內的行動計畫和所需造訪的場所、必須會見的人物等事項進行說明,並和我約好了明天傍晚再見一次面,屆時再告訴我詳細情形,而後,便用著相當溫柔的表情對我說:「在這趟台灣之旅,請你不要太緊張,務必要悠閒的慢慢享受,盡量多去一點觀光地,在那些地方你應該會遇到一些台灣人,你可以和他們聊一聊。不過,請不要忘記,這個國家現在處於戒嚴狀態。」然後,他以相當嚴肅的表情說:「在這裡介紹給你的人,對於要和你碰面這件事,都非常謹慎,請你一定要小心。」

然後,D先生又恢復之前的溫柔表情:「你肚子也應該餓了,我們去吃飯吧。」說著,他帶我到台北市圓環附近的小吃街,請我吃台灣料理。

在那裡,因為人潮相當多,感覺十分熱鬧擁擠,完全無法相信當時正處於戒嚴時期。

吃過飯後,我告訴D先生:「我想在街上走一走。」請他告訴我回到旅館的路之後,我們就分手了。說再見的時候,D先生又再度叮嚀我:「請不要忘記現在是戒嚴時期,一定要非常小心。」之後,便消失在人群裡了。

獨自一人的我一邊看著聚集在小吃街的台灣人的表情,一邊繼續散步。在漫步的同時,我怎麼也感覺不到聚集在這裡的人們是發自內心地享受著自由。他們似乎抱持著一種不知何時會遭到軍人或警察之不當暴行的不安心情,完全感受不到他們是真的開心地享受眼前的一切。

我從熱鬧的小吃街進入一旁的小巷,那裡瀰漫著一股戒嚴夜晚的漆黑,恐懼和不安的氣氛向我襲來。

抬頭一看,大型觀光飯店的窗戶閃著耀眼的光亮,一想到在窗戶的對面,男性日本觀光客們旁若無人地灑著大把大把的鈔票,貪婪地侵占著台灣女性的身體,同樣身為日本人,我為了這道德的淪喪感到無比的哀痛與悲傷。

7月18日
我依照D先生所言,傍晚之前在台北市內瀏覽觀光,但我卻完全無法放鬆心情,在觀光地,我一直很在意自己看起來是否像一個一味地注意時間的奇怪觀光客。結果,我比和D先生約定的時間早30分鐘就抵達約定地點。

我無所事事地抽著菸,心裡想著,說不定就連這樣的行為也會被懷疑。在約定時間的5分鐘前,一個20歲左右的長髮美女對著我露出微笑。我環顧四週,因為我完全不記得自己曾經見過她。

「是D先生請我來的。」她以不甚流暢的日文說著,同時交給我一個鼓鼓的紀念品袋:「請回到旅館之後再打開」,「再見」說完,她便很快的離開了。

一時之間,我茫然地望著她的背影,不過,卻也立即小心地抱著那個袋子回到旅館。袋子裡面裝的是台灣的點心,以及以相同包裝紙包著的幾張用中文寫成的報告用紙和中文報紙的剪報。另外,還有一封以日文寫著「給小林先生」的信件,上面寫著:到台灣南部的城市「高雄」 7月20日下午2點請到地圖上所畫的地點。

我馬上到櫃檯去,請他們幫我預約隔天早上從台北車站到高雄的特快列車「觀光號」和高雄市內的旅館。

7月19日
我搭上早上8點30分從台北車站出發的SL列車「觀光號」,車內相當擁擠。我想到高雄應該需要5~6個小時。中途,我在車上買來充當午餐的裝在鋁製食器的紅燒豬肉飯滋味,和位於神戶.三宮的咖啡廳的肉飯味道非常接近,讓我感到相當驚訝。

抵達高雄之後,我急忙趕往旅館。將行李放到房間裡之後,我立即到櫃檯去,請他們幫我介紹高雄的觀光景點,同時,還拿到了一份日文的觀光地圖,我把地圖塞進包包裡飛奔而出。櫃檯人員所提醒的「高雄市內禁止攝影的地方很多,請絕對不要在那些地方拍照」這段話,不斷在我的腦海中盤旋。

我盡力地扮演一個觀光客的角色,不做其他多餘或引人注目的事。我的目的只有一個,那就是確認明天要碰面的場所。

7月20日
我提早5分鐘進入前一天預先勘查過的約定的咖啡館。店內呈現微微的陰暗,不太像是一家咖啡館,在眼睛尚未習慣那個亮度之前,我甚至無法環視店內的景象。店內面積相當大,有十張帶有桌子的兩人座沙發,另外還有兩張更大一點,可坐上4~5人的沙發和桌子擺在店內的後方。店內有六個客人,大家都在安靜地聽著音樂。我在位於店內中央,可以看見咖啡館入口的位置上座了下來。我點了一杯咖啡,並將剛剛的觀光地圖放在桌上,開始聽起音樂。我假裝在看著地圖,但因店內太過陰暗,看不太清楚,所以,我把地圖擺在桌上,開始聽起音樂

20分、30分、40分過去了,沒有任何人出現。在那段時間,只有一位年長的男性走出咖啡館,以及一對年輕的男女朋友進入咖啡館。

我腦海中一直記得台北的D先生告訴我的「對於要和你碰面這件事,大家都非常謹慎」,決定默默地耐心等候。

過了50分鐘之後,我發現一個一邊在背後窺視我,一邊經過我的身旁走進廁所的男性。接著,這位男性停下腳步站在我的身後,他輕聲地用日文對我說:「你是小林先生吧?」我點頭之後,對方繼續說:「到店外面去,和我保持10公尺的距離跟過來。」說完,他便離開咖啡館,我也馬上就離開店裡。他在相距約10公尺的路上等著我,看到我的身影之後,他在直線道路上開始走了起來。大約走了5分鐘之後,他突然彎入一條狹窄的小巷。我也在跟他保持著一段距離的狀況下,跟著彎進了小巷,但卻不見他的身影。我有點吃驚,慢慢地在小巷中繼續前進之後,我看到那裡有家將開著門的小型餐館,剛剛那位男子從店裡對我招手。走進店裡之後,狹窄的店內有著4張桌子以及後方所隔出的2個小房間,我被請進了後方的房間。

房間裡有3名男性,當我進去之後,3個人都站了起來,在咖啡館碰到的那名男子後來才進來,他開使用日語為我介紹所有人,並以北京話將我介紹給其他的人。

在咖啡館碰到的G先生年紀大約50歲出頭。在店裡等待的則是五十好幾的C先生、四十好幾的T先生,以及大約三十歲左右,看起來相當年輕的K先生。

簡單的打過招呼之後,我們便開始進行最重要的訪問。

我準備錄音帶,並將寫了問題的紙張交給G先生,請他代為執行。

一開始,G先生針對被當作政治犯關在台東海邊的綠島時的拷問情形,進行描述,接著,便從我的「問題1」開始,針對所有問題錄下所有人的發言。

結束證言錄音之後,分手時,我從G先生那邊收到好幾分資料,我們相約不要放棄希望,繼續活下去,並期待有一天可以再次見面,最後,我跟每一個人緊緊地握手、告別。

7月21日
下午之前,我都在高雄市內散步。貫穿市內的「愛河」兩岸所瀰漫的南國氣氛非常迷人,但因河川的淤泥污染相當嚴重,所以,飄散著一股濃濃的異味。

午後,我從位在貿易加工區附近的高雄機場搭飛機返回台北機場。在候機室裡,幾位日本企業出差員工的太太們在對話中,若無其事地展現出她們對台灣人的歧視,我為了日本人男女皆然的傲慢和愚蠢感到無比憤怒。

傍晚,飛機抵達台北機場。我順便觀察了機場的出國行李檢查狀況。

日本亞細亞航空公司櫃檯對前往日本的行李所進行的檢查相當嚴格,工作人員將手放進旅行箱底下的每一個角落進行檢查。對必須帶走許多資料和珍貴錄音帶的我來說,這正是最後的考驗。正在沉思的當時,我看到前往美國的行李櫃檯的景況。檢查的內容和過程非常寬鬆,就只是把行李打開來看一看而已。我心裡感受到一股強烈的矛盾,同時,也注意到櫃檯的時刻表,我在上面看到一班從台北經那霸前往舊金山的汎美航空班機。我馬上前往汎美航空的櫃檯,詢問是否有那個的航班。很幸運的,明天8點30分有一班飛機,而且還有許多空位,於是我馬上進行機票的更改。

7月22日
一早起來之後,我在飛機起飛的前80分鐘抵達台北機場。我在汎美航空往舊金山的行李櫃檯排隊接受檢查。和前一天一樣,只做了寬鬆而簡單的檢查就結束了,之後,在飛機的座位上,就在僅僅30分鐘的飛行路程中,我感覺到緊繃的神經慢慢地鬆弛。抵達那霸機場之後,所有的事情都進行得相當順利,當天傍晚,我平安回到自己家裡。

要回想三十多年前的旅行真的非常困難。不過,當依照時間順序把它們一一寫下之後,宛如深棕色8厘米電影般的旅行回憶雖然褪了顏色,但卻非常清楚地映照在我的腦海中。或許有幾個地方不甚正確,請和梅心怡先生的記憶相互對照。

這趟旅行對我而言是一次「前往自由的漫長旅程」同時,它也成了我日後活動的起點。


【原文】
沖縄・与那国島から台湾への旅
私の自由への長い旅立ち

小林隆二郎

 1975年のことだ。私は大阪で、韓国の詩人」キム・ジハさんの詩や発言に関して朴政権が表現の自由の弾圧と同時に彼を政治犯として獄中に捕らえたことへの抗議と獄中のキム・ジハさんの支援と連帯のフォークコンサートの準備に奔走していた時、大阪の某大学の教授Kさんがアムネステイーの部屋を提供してくれ、リン・マイルスさんを紹介してくれた。この時のマイルスさんとの出会いが私の与那国島から台湾への旅の始まりだった。
 キム・ジハの支援コンサートが終わった後、マイルスさんは台湾における人権弾圧の実態を詳しく話してくれ、アムネステイの発行する参考資料を提供してくれた。
 1977年5月頃だったと思う。マイルスさんから緊急の連絡が入った。すぐに彼のマンションを訪ねたところ「小林さんは沖縄に何度も行き。詳しいから私と一緒に与那国島に行って欲しい」と言われた。理由をたずねたところ、驚く返事が返ってきた。
 「台湾の国民党政府の不正に対し、政治的な批判や抗議を行ったため、追われることとなった二人の男性を与那国島まで迎えに行って欲しい」と。
 その二人に危険が迫っているので早急に台湾を脱出させたいと話すマイルスさんの切迫した真剣さに、私はその場で協力を申し出た。
 それから数日後、綿密な計画をたて、マイルスさんと打ち合わせを行い、1977年5月後半に沖縄の遥か南西の小島、与那国島に旅立った。
 計画ではその日のうちに大阪伊丹空港から沖縄・那覇空港へ、那覇空港から石垣空港、さらに石垣空港から与那国島空港へと着く予定だった。当日、那覇から石垣島までは計画通り順調に進み、あとは与那国島までのフライトを残すのみだった。石垣島は快晴で初夏の風が心地よく吹き抜けていた。その時、空港内のアナウンスで与那国島の天候が不良のため飛行機が欠航する旨が流れた。私とマイルスさんは詳細を確かめるため南西航空のカウンターに急いだ。結局、その日は飛ばないと知ると急いで翌日の一番早い便に変更すると同時にホテルを探すのだった。
 翌朝も快晴、フライト可能を確認、前日与那国島で合流する予定だった二人の男性の無事を祈りながら焦る気持ちをおさえ19人乗りの小さな双発のプロペラ機に乗り込み与那国島に向かった。
 与那国島は石垣島から南西124Km、台湾の蘇澳(スーアウ)から東に111Km離れた日本最西端に位置する東シナ海に浮かぶ周囲27.5Kmの小さな島だ。
 与那国島には、祖内、比川、久部良の三集落があり、台湾から来た二人の男性は久部良集落にいるとのことだ。マイルスさんは集落の中を英語や北京語の歌を交互に大声で歌い、私たちが到着したことを知らすのだった。1時間ほど過ぎて、数件の民家が建ち並ぶ小高い丘の上に出た時、サンゴを積んだ石塀の横から40歳くらいの男性が二人顔を覗かせ注意深く私たちを見た後、そのうちの一人がマイルスさんに小声で話しかけてきた。二言三言交わした後、マイルスさんは私に「彼等に会えた」と嬉しそうに知らせてくれた。(この時出会った二人の名前を思い出せないのでAさん、Bさんと呼ぶことにする)
 Aさんは手足がはみ出したサイズが合わない芭蕉布の着物を、かくまって下さった民家の方に借りて着ていたのだが、はみ出した手足には多くの痛々しい擦り傷や切り傷に赤チン(赤い色の消毒液)が塗られていた。Bさんは、これも民家の方に借りたのか作業ズボンとTシャツを着ていたが、彼もまた両腕に多くの傷があり赤チンの後が痛々しかった。マイルスさんに通訳してもらい聞くと、二人は真夜中に台湾から漁船で与那国島の近くまで接近し、海に飛び込み泳いで上陸したとの事、その時に岩や貝で切った傷だと言う。それにしても与那国島の周辺の海は潮の流れが速く、一歩間違えば確実に死につながる、そんな危険な真っ暗な海に飛び込むほど二人には切羽詰まった状況下にあったことをうかがい知ることができる。
 私は多めに持ってきた着替え用のジーンズやTシャツ、下着類などを二人に渡した。
 その後すぐに、民家の人にお礼を言い、レンタカーで空港に向かい那覇までの航空券を買い、次の便まで狭い空港の待合室で周りに注意をしながら時間をつぶすのだった。待ち時間の間、私は二人を快くかくまってくれた島の人の気持ちを考えてみた。
 おそらく少し前まで与那国島では首里王府や石垣島との交流や信頼関係より、頻繁に行き交っていた台湾の人たちとの信頼関係があり、その大きさと深さが今でも大切に持ち続けられている証しだと思えるのだった。
 夕方に那覇空港に着いたが大阪までの飛行機には間に合わず、翌日のお昼の便のチケットを購入し、その日は那覇のホテルに泊まった。
 その夜二人から国民党による数多くの不正な選挙得票数の改ざん操作や事件のでっち上げ、台湾独立を願う文化人たち、特に郷土作家と言われている人たちへの厳しい表現への弾圧が強まり、「さよなら再見」で有名な黄春明さんにも弾圧の魔の手が伸びている等、国民党の人権無視に抗議、反対する人たちへの意図的な不当逮捕などのひどい人権侵害の現状を聞くのだった。
 次の日、昼過ぎの飛行機に乗り、夕方に大阪の伊丹空港に着いた。空港で二人を支援する別のグループに彼ら二人を引き渡した。
 後日に分かったことだが、二人は伊丹空港で別の支援グループと合流した後、3~4日後にアメリカに渡り、アメリカの下院議会で台湾の人権問題公聴会で国民党による人権侵害の現状について証言していた。

沖縄・与那国島から台湾への旅 後編
初めての台湾への旅(1977年7月17日~7月22日)

与那国島の旅の疲れが取れた矢先、6月の終わりに再びマイルスさんからの緊急の電話連絡が入った。
 「国民党政府により政治犯として捕えられ、ひどい拷問を受けた人が出獄し、そのことについて証言したいと言う人がいるので、その人から体験された拷問の実態を聞いて来てほしいので早急に台湾に行ってほしい」との連絡を受けた。かなり夜の遅い時間だったがマイルスさんのマンションを訪ねた。そこで緊急の必要性や私のやるべき内容などを詳しく説明を受けた後、台湾に行くことを決めた。
 翌日からパスポートの取得やビザ申請、伝染病の予防接種(当時はイエローカードが必要だった)航空券の予約、購入と目の回るような数日だった。
 その間、マイルスさんは台湾の人たちと私が、台湾国内で会うべき人たちや場所など詳しい行動予定の調整を行ってくれていた。私は北京語が話せないので拷問実態などの質問内容を聞くときに前もって北京語で質問内容別に番号を打ち、書面にしておいてほしいとお願いをした。もうひとつ、私が無事で行動していることを確認するため、毎日時間を決め電話連絡することにした。
 7月17日
 大阪伊丹空港から台湾の台北へ日本アジア航空で出発した。
 台北に入国した私は、今回の旅で接触する人と場所、時間などを調整してくれている台湾の人に連絡をとり、台北市内のその人の家を訪ねた。
 その人は50歳前後の優しそうな顔立ちの男性Dさんで、流暢な日本語で私を迎えて下さった。さっそくに台湾国内での行動予定と訪ね行く場所、会うべき人たちと用件などを説明して下さった後、明日の夕方もう一度会いましょう、詳細はその時お知らせしますと言った後、やさしい表情で「あなたは台湾旅行を慌てないでゆっくりと時間をかけ十分に楽しんでください、できるだけ多くの観光地を訪ね、その旅先で何人かの台湾の人と出会うことでしょう、そうしたら話し合って下さい。でも忘れないで、この国は今、戒厳令下にあることを」と。そして厳しい表情になって「ここに紹介した人たちはあなたと会うことに非常な警戒心を持っています、十分な配慮と気遣いを怠らないでください」と言葉を結ばれた。
 そして元の優しい表情に戻ったDさんは「お腹が空いたでしょう、食事に行きましょう」と私を台北市内のロータリーにある屋台街に連れて行き、台湾料理を御馳走して下さった。
 そこは多くの人たちで賑わい混雑していて、とても戒厳令下にあるとは信じられなかった。
 食事を終えた後、わたしはホテルまでの道順を教えていただき「少し街を散歩したい」と言い、Dさんと別れた。別れ際Dさんは再度念を押すように「戒厳令下にあることを忘れないで十分気をつけてくださいね」と言い、人ごみの中に姿を消して行かれた。
 一人になった私は屋台街に集う台湾の人たちの表情を見ながら散歩を続けた。続けながら私には、ここに集う人たちが心から自由を楽しんでいるようには、どうしても見えなかった。何時、軍や警察による不当な横暴行為が行われるか分らないと言う不安を抱え、今を楽しんでいるように感じてならなかった。
 賑やかな屋台街から一歩裏道に入ると、そこには戒厳令下の夜の闇が広がり、恐怖と不安が一気に私を襲ってきた。
 見上げると大きな観光ホテルの窓明かりが明々と輝き、その向こうでは男の日本人観光客たちが、わがもの顔で札束をちらつかせ台湾の女性を貪っていると思うと、同じ日本人として意識やモラルの低さ、愚かさを痛感し、悲しみを禁じ得なかった。
 7月18日
 私はDさんに言われた通り夕方まで台北市内観光を行ったが、気持ちに余裕など無く、観光地では時間ばかり気にする変な観光客に見えたのでは無いかと気にしながらDさんとの約束の時間よりも30分も早く、約束の場所に来てしまった。
 私は所在なげにタバコをくゆらせていたのだが、その行為すら疑わしいと思われるのではないかと考えてしまうのだった。約束の5分前、20歳くらいの髪の毛の長い美人が、私を見て微笑みかけてきた。まったく覚えのない私は周りを見回した。
 「わたしはDさんに頼まれた者です」とたどたどしい日本語で話しかけ、小さく膨らんだお土産袋を手渡してくれ「ホテルに帰ってから開けてください」とだけ言い、「さよなら」と急いで立ち去っていった。
 しばらくは茫然と彼女の後姿を追っていたが、すぐにその袋を大切に抱えホテルに帰った。袋の中は台湾のお菓子と、同じ包装紙に包まれた中に北京語で書かれたレポート用紙数枚と北京語の新聞の切り抜き等の情報資料が入っていた。さらに日本語で「こばやしさんへ」と書かれた手紙があり、そこには台湾南部の街「高雄」へ7月20日午後2時に地
図に書かれた場所に行くようにと書かれていた。
 私はすぐにフロントに行き、翌朝台北駅から出る高雄行きの特急列車「観光号」と高雄市内のホテルの予約を依頼した。
 7月19日
 朝の8時30分に台北駅を出発したSL列車「観光号」に乗車した。車内はかなり混み合っていた。高雄駅まで5~6時間くらいの所要時間だったと思う。途中車内販売で昼食用に買ったアルミの食器に入った肉飯の味が、神戸・三宮にある台湾からの方が営業する喫茶店の肉飯の味と非常に似ていて懐かしさと美味しさに感動した。
 高雄駅に着きホテルに急行し、部屋に荷物を置くとすぐにフロントに行き、観光地の紹介をしてもらい、同時に日本語で書かれた観光地図をもらった。それをバックにねじ込みホテルを飛び出した。ただフロントの係員が注意した「高雄市内には写真撮影禁止場所が多くあります。その場所では絶対に写真撮影はしないで下さい」の言葉が頭の中を駆け巡っていた。
 余計なこと、目立つことはしないで観光客に徹した。しかし目的はただひとつ。明日の約束の場所の下見確認しておくことだった。
 7月20日
 前日に下見をしておいた約束の喫茶店に5分前に入った。店内は薄暗くおおよそ喫茶店らしくなく、目が慣れるまで店内を見回す事も出来なかった。その店内は結構広くテーブル付きの二人用ソファーが10脚、もう少し大きい4~5人用のソファーとテーブルが2脚、店の奥にあった。お客さんは6人いたが皆静かに音楽を聴いていた
 店の中央にあり、入り口の見える席に座った私は、コーヒーを注文し先ほどの観光地図をテーブルの上に取り出し、見るふりをしたが店内が暗すぎてよく見えないのでその地図をテーブルの上に置き音楽を聴くのだった。
 20分、30分、40分と過ぎたが誰も現れない。その間に店に出入りしたお客さんは年老いた男性一人出て、若い男女のカツプル一組が入っただけだ。
 私は台北のDさんに言われた「私と会うことに警戒されている」という言葉を胸に辛抱強く目立たぬように待つことに決めていた。
 50分くらい過ぎた時、後ろでチラチラ私を見ながら通り過ぎ便所に入った男性に気付いた。そして出て来たその人は、私の後ろで立ち止まり、小さな声で「コバヤシさんですね」と日本語で声をかけた、肯くと言葉を続け「店を出て、私の後を10mほど離れてついて来て下さい」と言って店を出て行った。私もすぐに店を出た。すると10m程離れた路上に彼が待っていて、私の姿を見ると直線の道路を歩き始めた。5分程歩いた時、突然狭い路地を曲がり入って行った。私も離れたままその路地を曲がり入ったそこに彼の姿は無かった。驚いたがゆっくりと路地を進むと、店の戸を開けたままの小さな食堂があり、中から先ほどの男性が手招きした。入ると、狭い店内に4つのテーブルと奥に仕切られた小部屋が2部屋あり、その奥の部屋に招かれた。
 部屋には男性が3人いて、私が入ると3人とも立ち上がり、喫茶店で会った人が遅れて入り、日本語で全員の紹介と北京語で私の紹介を始めた。
 喫茶店で会った人はGさんで50歳前半。店で待っていた人は50歳後半のCさん40歳後半のTさん。30歳位と若く思えたKさんだ。
 挨拶もそこそこに、本題の質問インタビューを行うのだった。
 テープレコーダーを用意し、質問内容が書かれた紙をGさんに渡し、進行役を依頼した。
 最初にGさんが、政治犯として収容されていた台東沖の緑島での拷問実態について話した後、「質問No1」から全員の解答とコメントを録音した。
 証言録音も終え、別れ間際にGさんから幾つかの資料を受け取り、互いに希望を捨てないで生きて行く事と、再会を約束し全員と固い握手を交わし別れた。
 7月21日
 午後まで高雄市内を散策する。市内を流れる「愛河」の両岸の南国的な雰囲気は最高だが川はヘドロ汚染が酷く、ぶくぶくと泡がたち異様な匂いが漂っていた。
 午後、貿易加工区の近くにある高雄空港から台北空港まで飛行機を利用。その待合室で日本企業の出張社員の奥さん数人の会話に台湾の人への差別が平気で語られていることに男女を問わず日本人の傲慢さと馬鹿さに言いようのない腹立たしさを感じた
 夕方、台北空港に着く。その足で空港の出国時の荷物検査の様子を見る。
 日本アジア航空で日本へ出国する際の検査は実に厳しく、旅行鞄の底の隅々まで手を入れ調べている。多くの資料と貴重な録音テープを持ち出さなくてはならない私にとって最後の試練が待っていた。思案していた私の目にアメリカ行きの荷物カウンターの様子が目に入ってきた。その検査の内容たるや実に緩やかで、ただ荷物を開き、目視するだけだ。そんな矛盾を感じながら出発カウンターのタイムテーブルに目が止まり、そこにパンナム航空の台北~沖縄・那覇~サンフランシスコ行きの便があることに気付いた。すぐにパンナム航空
のカウンターに行き、明日その便が有ることを聞いてみた。ラッキーなことに明日8時30分にその便はあり、空席も十分あるとのこと。
 すぐにチケットの変更を行った。
 7月22日
 早起きして台北空港に、出発の80分前に着き、パンナム航空サンフランシスコ行きの荷物カウンターに並び、検査を受けた。前日と同様で検査は緩く簡単に終わった
 すぐに機内に乗り込み、座席に崩れるように座ると、体中から張り詰めた緊張感が崩れるようにほぐれていくのを、僅か30分のフライト中感じていた。那覇空港に着くとあとは順調に大阪・伊丹空港へと推移し、その日の夕方無事に自宅に着く事が出来た。

 最後に、30年以上も前の旅を思い返すのはかなりの困難を必要とした。しかし順序を追って書いていると、セピア色の8mm映画のように旅の出来事が色あせながらも明確に思い出せる場面もあった。正確さに欠けることも幾つかあると思いますが、マイルスさんの記憶とも照らし合わせてみてください。
 この旅は、私にとっての「自由への長い旅立ち」であり、その後の私の活動の原点となっていることを宣言します。
2008年3月22日

PS 今テレビで台湾の総統選挙の結果が出ています。国民党が再び政権を握りそうですが大丈夫ですか、この旅の頃の嫌なイメージが甦りそうで憂鬱になります。

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